かつて「東の浅草、西の新開地」と呼ばれ、
西日本最大級の風俗街・福原に隣接し、
神戸一の繁華街として賑わった新開地ですが、
戦後はドヤ街へと転落。その理由を解説します。

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1 Comment

  1. うーん、新開地の成り立ちからして必然だったと思う。

    元々の神戸地域は、長田神社の門前(六間道)、兵庫の津、花隈城城下町、灘の酒蔵、妙法寺の寺領(ここはちょっと遠い)で、明治開港まではこの構成。
    で、元々津(港)があり、既に廃城になっていた花隈城領の六ヵ村を後背地に神戸港を開港した。経験と労働力として期待されたわけ。場所的には兵庫の津からは少し外れる。

    まあ、その後貿易港として全国から人が集まるようになって行ったわけだけども、大半は港湾労働者と海岸部に林立した工業地帯の労働者。

    この頃の六間道というのは地元有力者の遊び場であり、灘の方は当然権力者の集住域。市役所があのあたりにあったのも神戸の中心が三ノ宮ではなかったから。
    なので、言葉は悪いが、そういう人たちを隔離するために「新開地」を作ったのが始まり。川重(川鉄)や三菱と軽工業地域の間くらいで福原の隣にあえて作った。つまり景気が悪くなればドヤになるのは当然の流れ。

    ついでに言うとアートで街おこしっていうのはNYCのSOHOが一番有名かな。あそこは意図してやったわけじゃないけれど、世界中がこれを真似たと言っていいと思う。

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