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■管長日記「つねに善を思い、善を行う」
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■note
https://note.com/engakuji/n/n7db8da0cfea7
 
 
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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「つねに善を思い、善を行う 人の面は つねになごめり」とは朝比奈宗源老師の言葉であります。

『論語』にある、「性、相近し、習い、相遠し」という言葉を昨日紹介しました。

この言葉は今北洪川老師の『禅海一瀾』にも載せられています。

『禅海一瀾』は、今北洪川老師が、岩国の永興寺に住していた時に、岩国の領主吉川経幹(つねまさ)公のために、儒教の言葉を用いて禅の教えを説いたものです。

二〇一八年に、岩波文庫で『禅海一瀾講話』を出版しました。

これは、洪川老師が書かれた『禅海一瀾』を釈宗演老師が講義なされたものです。

小川隆先生が綿密に校訂し、注釈をつけてくださったものです。

『禅海一瀾』の巻下は、『論語』や『大学』『孟子』など儒教の古典にある言葉を用いて、洪川老師が禅の立場から解釈されています。

その第二十五則に「性近」として説かれているのです。

『禅海一瀾』は、かつて柏樹社から盛永宗興老師が、現代語訳を出されています。

盛永老師の訳文には、

「孔子曰く、「本来の性質はみな似たようなものである。後からの習慣によって大いに隔ってくる」と。(論語)」

と書かれています。

このところについて、釈宗演老師は、『禅海一瀾講話』において、

「「性相い近し。習い相い遠し」、言葉は誠に簡単でありますが、その意味する所は余程深くして遠い。

此処で「性相い近し」という「性」は、言うまでも無い、「天性」と言うても宜い、「本性」と言うても宜い。色々外に名づけ方はありましょう。

兎に角、人間に具足して居る所の本性は「相い近い」。

何が近いかと言えば、例えば仏と凡夫とは元来「相い近い」。

近いというのは、孔子の言葉であるから、余程控え目に言うて居られるが、仏教の言葉で言えば、「煩悩即菩提心」というが如くで、兎に角、性「相い近し」。

聖人と雖も愚夫と雖も、「性は相い近い」。

寧ろ有体に言うならば、この「性」は一つで、 譬えて言うならば一枚の白紙も同様である。

まだまだ「性」の本から言うと、これが仏だの、凡夫だの、罪の子であるの、神の子であるの、という違いはない。

ただ白紙と同様、或いは色を染めぬ所の絹の様なもので、昔の人がそういうことを色々言うたことがある。

あなた方の記憶に残って居りましょう、白糸の如きものである〔『宗鏡録』 2 「習性の染め易きこと、猶お白糸の如し」。

「本性」というものも、それと異なることはない。

極く近い所のものであるが、しかし乍ら「習い相い遠し」。

「習」というは即ち習慣ということで、仏法では、業習と言って居ります。

詰り世間言葉で言う習慣、それが「相い遠し」。

本の所に於ては、仏も凡夫も得たる所は変りはない。

然し、迷いと悟りとその追分道の分れ道に依って、段々癖づく所が遠ざかって行く。

「本性」という点から見れば、人間と他の動物と大した違いはないが、その習う所の違いに依って段々と遠ざかって行く。

仏教などで言いますと、一つの心という方から見ると、仏とか、菩薩とか、縁覚とか、声聞とか、人間とか、修羅とか、畜生と餓鬼とかいう者も、本に就いて見ると極く近い。

実際に就いて眺めると、頗る遠ざかって行く。

そういう意味で、「性相い近く、習い相い遠し」じゃ。」

と解説されています。

やはり宗演老師も本性は皆同じ、ひとつだと解釈されています。

更に「譬えば白紙一枚でも、そこに「いろはに」の「い」の一字でも出来たら、それが習いである。

或いは練り上げた所の白糸であるが、それを黄に染めたり、赤に染めたりするに従って違って行く。

丁度それと同じで、古人は岐に於て泣いた人もある[『蒙求』383「墨子悲糸」、3「楊朱泣岐」]。

一歩の践み出しに依って大変違う。

真直に道を行く人もある。

違った道を行く人もある。

例えば東京の日本橋を、二人の人が出立したが、一人は南へ行き、一人は北へ行くならば、その行き着いた地から言えば、大変な距離を隔たって居る。

発足地は一つであるが、到着地に大相違がある。」

というのであります。

「楊朱泣岐」というのは、

「楊朱(中国の戦国時代の思想家)がわかれ道にたって、そのどちらにもいけることを思い、同じ人間ではあっても人はそれぞれに道をえらんで、その結果、賢愚・善悪の差が生じることをなげいたという。」

という故事であります。

そして更に洪川老師の『禅海一瀾』には、

「昔から偏った見方の儒者達は、仏教で因果応報、生死輪回が説かれているのを誹り、そのようなことは、中国の聖人達は説かれなかったと否定する。

私にはこのような批評は理解できない。

『尚書』にも「善を行えば、天はこれに多くの幸を下し、不善を行えば、天はこれに多くの災いを下す」といっているではないか。

『周易』には「先祖代々善行を積んできた家には、その人達の余徳による慶事があり、代々不善を重ねてきた家には、必ずその報いの災いごとがある」。

また、「(この『易経』は)その行いの当・不当に応じて、吉凶の報いを明らかにする(ものである)」とも、さらに「(もの事の)初めに遡ってその原因を明らかに推し究め、そこから結果を推しはかる。それ故(易を学べば初めと終わりの相対循環の関係が察知されて) 人生の生と死の問題も解決されるはずである。」

と説かれています。

宗演老師は、「善き原因を沢山積み上げた所の家には、必ず善き果報というものが自ら報うてくる。

それに反して、悪い原因を積み上げれば、必ず悪い所の果報、即ちあまたの災を受けると『周易』にある。」と解説されています。

周易の言葉とは、

「積善の家には必ず余慶有り、積不善の家には必ず余殃有り」というものです。

また『禅海一瀾』には、次の逸話が説かれています。

こちらは、宗演老師の『講話』から参照してみます。

「また実例も沢山ある。「宋の時、湖州の粋禅師、一日、数宰官に陪して道場山に陟(わた)る。宰官、壁間に画く所の三界輪回の図を見る。」

昔は田舎寺にでも行くと地獄極楽の図が本堂の隅に掛けてあったもので、それと同じことです。

道場山の本堂の壁間に、地獄極楽の図が掛けてあった。

それを見て役人連が粋禅師に尋ねた。

「粋に問う、此れ何の義ぞや」。

仏教ではこういうことを言って愚民を威したり何かするが、全体これは義理があることかというたらば、粋禅師が、お前さん達こういうものを見ると、仏教はこれで困るなどと、早合点するが、「独り仏経之を言うにあらず、孔子之を言う亦た已に詳らかなり。曰く、何の謂ぞや。枠曰く」、孔子が説に言うて居るではないか、即ち「孔子云く、性相い近し、習い相い遠しと」、これじゃ。

世間の言葉では習慣と云い、仏教では業習と云うので、即ち身口意の三業の習慣というものが、善となり、悪となり、それから段々追分道が分れて次第次第に相い遠かって来る。

それから地獄もここに現われて来る、 極楽もこれよりして現われて来るのである。

こういう適切なことを示したものであるから、「宰官各の合爪首肯して休む」。

その時、役人連が「合爪」〔合掌]して成程それに違いないというて皆な感服した」

というのであります。

これは盤珪禅師が常に仰せになったように、生まれついたものは不生の仏心ひとつ、それをお互いが身のひいきによって、地獄や餓鬼の世界を作り出すというものです。

逆に善き行いに努めていれば極楽をも作り出します。

業習というのは体と言葉と心ですから、体で善い行いに務め、善い言葉を用い、善い思いを抱けば、必ず善い結果が生まれるのであります。

まずその善い結果が顔、表情に現れるということです。

「つねに善を思い、善を行う 人の面は つねになごめり」なのであります。
 
 
横田南嶺
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