今年2回目の京都/奈良旅もいよいよ終わりです。しかし今回は、ただこのまま真っ直ぐ帰るのではなく、中部地方の都市「名古屋」に寄り道します!
高速バスから流れる日本の美しい景色を見ながら、歴史好きとして周りの歴史を調べてきました!
私が大好きな日本の古代史要素が多めの内容となっています!
▼京都旅の動画
・私がオススメする素敵な神社「伏見稲荷大社」
https://youtu.be/cSrMnJHDYeE (前編)
https://youtu.be/mtiAPYdoCNc (後編)
・初めての着物で京都町歩き
・外国人歴女がおすすめする京都の穴場神社「日向大神宮」
・じっくり参拝する清水寺
・じっくり参拝する「北野天満宮」
▼車窓編の動画は他にもあります^^
・憧れの2階建バス「アストロメガ」の最前席でいく京都旅
https://youtu.be/KB0VStINEEI (前編)
https://youtu.be/v1sKeO737As (後編)
・東海道新幹線「こだま」でいく京都
【ご支援ありがとうございます】
SuperThanksにて、サポートくださった皆さん、ありがとうございます。
サポートくださった皆さんには、なるべくコメントにてお礼ができるよう心がけておりますが、遅くなってしまうことがありますこと、申し訳ございません。
皆様からいただいたサポートにつきましては、勉強に使う教材や旅にかかる費用、縄文遺跡巡りに当て、今後の良い動画を作っていけるよう大切に使わせていただきたいと思います。そして、せめてものお返しにはなってしまいますが、より一層楽しんでいただけるような動画を作っていけるように頑張ります!
【連絡先】
・メール:daria.jp2019@gmail.com
・Instagram:https://www.instagram.com/sukimani_daria/
コラボや取材、その他案件などにつきましては、メールもしくはSNSのDMにてお問い合わせください。
特に私は、日本の名産品やその土地ならではの特産品など、日本の素敵な文化や商品をもっと広められたらなと思っています。
日本各地、その土地ならではの素敵な場所があると思っています。
農家の皆さんや観光PRに関わる方で、ご興味がありましたらご相談ください!
日本の考古学(縄文時代など)で遺跡での取材についても、お待ちしております!(笑)
その他につきましても、お気軽にお問い合わせください。
※メール確認には気を配っておりますが、返答には数日お時間を頂戴することがありますため、お時間には余裕を持って依頼をいただけますと幸いです。
※ウクライナ情勢についての取材依頼は、誠にすみません。現在、ほとんどの場合において控えさせていただいております。状況が複雑で、こちらでも情報の正確性がわからず、慎重になるべきだと判断したためです。ご理解いただけますと幸いです。
【動画作成について】
音源
BGM:
Music from epidemicsound.com
https://www.epidemicsound.com/referra…
画像
https://pixabay.com/ja/
(動画内の一部画像は以上のサイトよりお借りしています)
#国内旅行 #バス旅 #車窓
35 Comments
ダリアさんのチャンネルはその場所だけでなくその道程も撮ってあるので自分自身が旅をしてる気分になりますね、+ガイドさん以上のアナウンスに食事模様 ツアーに参加しているようです(^^)d
新名神高速道路が開通したんですね。、まあ京都までですけど。
ダリアさん、どこでそんな知識を学んだんですか?
ちなみに草津から亀山に抜けるのが本来の東海道です。
甲賀をきちんと、コウカと読める人は日本人でも少ないですよ。
初めて投稿いたします。名古屋在住の私としましてはダリアさんが名古屋をどの様に散策されるのかに大変興味があります。楽しんでいただけると嬉しいです!(名古屋城近辺が私の庭ですw)
甲賀市(こうかし)と発音されているので疑問を持ちましたが、正しい発音でしたね。
日本の忍者の里に伊賀(いが)と甲賀(こうが)があるので、「こうがし」が正しいのではと思いましたが、
市の発音は(こうかし)が正しく、忍者の発音は(こうか)(こうが)の、どちらも正しいとのことでした。
最初の動画から、視聴していますが、大勢居るユウチュウバーの中で、最も信頼出来る、人間性を感じます。
相変わらず、めちゃくちゃ良く勉強されていますね。😲
自分も、列車やバスの中から車窓を眺めることが大好きです。😍
まるで、立体の地図🗾を眺めているような気分になります。😚
ところで、日本の歴史や地理がお好きな主様、NHKの「ブラタモリ」はご存知でしょうか?🙄
自分は大好きです。🥰
主様の動画のように、わかり易く地理や歴史、さらに地学について教えてくれます。😌
自分は、琵琶湖が昔、現在とは違う場所に有った話をブラタモリで知りました。😅
「三重」の地名の由来は、今回主様の動画で初めて知りました。😂
ちなみに、少々の訂正を一つ。今回バスが名古屋高速を降りた出口の名称は、「烏森(からすもり)」ではなく「烏森(かすもり)」です。😂
京都には、「烏丸(からすまる)」ではなく「烏丸(からすま)」があるので、めちゃくちゃややこしいですね。🤣
日本語(特に固有名詞)は難しい。🤔
これからも、もっと日本を(とりあえずは名古屋を)楽しんで下さい。🙏
まさに『玄人裸足』。
プロのバスガイドを超越していると思います。
琵琶湖が移動したなんて、知りませんでした。
本当に綺麗な日本語で聞いていて気持ちが良く成りますね。
ダリアさんは、本当にお金と時間を有効に使った良い旅をしますね。新幹線も良いのですが、新幹線のお陰で、本当に楽しい日本の国内旅を忘れて
しまっていました。そういえば、江戸時代は東京から大阪まで53日で旅行していたのですが、その時代の旅が一番、楽しかったのかも知れません。
まるでバスガイドさんと一緒ですね凄く勉強していますね本当に頭良すぎ
どうせなら安土城に行ったらいいと思いますね。
木造建築物は本能寺の変に準じて放火され跡形も無く無くなってしまいましたが
堅牢な石垣は健在です。
今全国に残っている城跡の原型であり、天守閣を持った城のパイオニアです。
唯一現存している摠見寺三重塔が見ものです。
千年皇都京都からサムライの都名古屋!
大阪からなら近鉄の名阪特急ヒノトリが素晴らしいのでオススメです( 'ω')ノ
名古屋市内の歴史観光は、志段味古墳群、熱田神宮と七里の渡し、桶狭間古戦場と有松宿、名古屋城、100m道路の久屋大通公園とありますが、場所がバラバラなので良く順路を調べて観光する事が必要なので大変ですが、素敵な場所が多いですよ( 'ω')ノ
愛知県に範囲を広げると、やはり数多くのサムライが出身地のため、犬山や小牧や清須、岡崎や安城や西尾、長篠や吉田など城郭がかなり多いですよ(´ω`)
とても誠実な動画作製。素晴らしいです。
日本人以上にお詳しくて感心してしまいました。
日本を東西に移動するため山間部を避けて通れる滋賀県が交通の要衝になったのは必然だったと思いますし、そこが日本三大商人の一つ近江商人の拠点になったのもうなずけますよね。トヨタ自動車の創業者も近江商人をルーツに持っていると聞くとすごいポテンシャルを持った土地だなあと実感させられます。
日本人を超える完璧な日本語です。歴史、地理、文化など名ガイドにも驚きます。そして、とても感じ良い話し方です。
素晴らしいですね(^o^)❤💞
ダリアといえば高速バス。 高速バスといえばダリア。 定番になってきましたな。 それはそうと、地元の名物もいろいろ食べてほしいですね。 名物にも伝統と歴史があります。
見事な旅案内でした。安定の語り口、カメラワーク、BGM選曲、何より声が素敵です。九州人の私には大きな勉強になりました。ありがとうございました。そして楽しかったです。
名古屋高速出口は烏森は(かすもり)ですね
ちなみに名古屋市中央の鶴舞公園は(つるまこうえん)
駅は鶴舞駅(つるまいえき)
日本語はめんどくさい
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 – 7月23日(ユリウス暦672年7月24日 – 8月21日に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという日本では例を見ない内乱であった。
名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。白村江の戦いで負けた後、唐に倣って中央集権制にしようと、律令制を取った。しかし、平安時代、それも崩れていき、大和朝廷の健児(こんでい)を手本に武士が台頭し、武家政権による封建制に移行していった。そうして、ヨーロッパのような封建制となり、志那大陸のような専制政治にはならなかった。
大海人皇子(のちの天武天皇)の兄・天智天皇(中大兄皇子)は白村江の戦いで負けた後、亡くなったとされているが、実は生きていて、天武天皇に助言していたという説もあります。
大和朝廷は財政難から軍備縮小するために少数精鋭の健児(こんでい)の制を設けた。健児(こんでい)とは庶民出身の軍団の兵士とは別に選抜された郡司らの子弟から成る。唐制を参考にして733年精鋭300人を指名、738年に廃止したが、762年に再置した。軍団の兵士は弓馬の心得あるものが少なく、792年に辺境のほかは軍団を全廃し、質の向上を図るため、健児(こんでい)を正規の兵制とした。蝦夷(えみし)が軽装甲の弓騎兵で構成された騎兵であったため、これに苦汁をなめさせられた。これに対抗するために健児(こんでい)を重装長弓騎兵にせざるを得なかった。この健児(こんでい)が廃止されてからも、各地の有力豪族は健児(こんでい)を基礎とした重装長弓騎兵である武士を召し抱えていった。
8世紀の中葉は鎮守府の鎮兵で対応できた蝦夷(えみし)の状況も、780(宝亀11)年の伊治呰麻呂の乱を契機に始まった蝦夷(えみし=匈奴系日本人)の大規模な反乱で大きく変わることになった。それまでとはけた違いの軍隊が動員されたが、それでも蝦夷の頑強な抵抗を受けて大きな損害を被るということもあった。問題のリード文にもあるように「続日本記」の783(延暦2)年6月6日には「坂東の諸国、軍役有るに属きて、毎に多くは尩弱にして全く戦ふに堪へず。即ち、雑色の輩、浮宕の類有りて、或いは弓馬に便あり、或は戦陣に堪ふ。徴し発つること有る毎に嘗て差点せずと聞く。(中略)坂東の八国に仰せて、有らゆる散位の子、郡司の子弟と、浮宕らの類との身軍士に堪ふる者、国の大小に随ひて、一千已下、五百已上を簡び取るべし」とある。坂東(=毛人=地中海沿岸系日本人)から集めた兵士が弱いので、これからは地方有力者の子弟から成る軍を用意しなさいと記されている。その中に「弓馬に便」とあることにも着目したい。騎兵が期待されているということである。軍防令2には「凡そ兵士は、各隊伍為れ。弓馬に便ならむ者をば、騎兵隊と為よ。余をば歩兵隊と為よ。」とあるから、律令制度下にも騎兵隊があったことは明らかであり、その騎兵隊を構成し乃は、おそらくは地方豪族の子弟であっただろう。軍団の兵士は渡海して戦うことを前提にしているので、主に歩兵である。蝦夷(えみし)との戦いでは渡海は前提にしないし、何よりも蝦夷(えみし)が優秀な騎兵であった。これと戦うためには朝廷の軍も騎兵化する必要があった。これを「辺要の地」すなわち大陸に備える西海道諸国と、辺境の陸奥・出羽・佐渡を除いて一般化したのが792(延暦11)年の健児(こんでい)の採用である。
鎌倉時代にフビライハンの元が日本に攻めてきましたが、この時、重装長弓騎兵の武士が大活躍しました。
元軍が最初に博多に姿を現すのは6月初め。そこから志賀島に上陸し、7月初めまで湾内の戦いが続きます。そして1ヶ月以上戦った後、元軍は船に押し込められたまま台風に遭遇。つまり台風の前に元軍は負けているのです。またモンゴル軍というと騎馬兵のイメージがありますが、水や飼葉のことを考えると、当時の技術で人数分の馬を海上輸送するのは不可能です。結果、彼らのほとんど(もしくは全員)は歩兵でした。
元軍は、日本の前に南宋を滅ぼしています。この南宋と幕府はかつて同盟関係にあり、北条時宗は南宋からの亡命者や貿易商人を厚め、逐一情報を得ていました。そのため元軍到着前には上陸地点を正確に予想しており、要塞を築いて全国から御家人の集結も完了済でした。当時は座礁リスクもあり、小舟で分乗して来るしかありません。すなわち兵力が分散しますので、幕府側は陸地で待ち構えて各個撃破すれば良し。
対峙する日本軍の数は6万人ほど。更に東国から援軍が続々と出陣していたが、彼らが到着する前に元軍は引き上げていた。ただし、当時の武士は「弓馬の芸」というくらいで、主な武器は騎乗しての弓矢でした。ヨーロッパのロングボウが大きいもので2メートルほど。対して武士の和弓は、定寸が7尺5寸(約2.3メートル)。さらに和弓は両面を削った木に、炭化させた2枚の竹を合わせて靭性を確保し、強い攻撃力を誇りました。源為朝は8尺5寸、8人張り(7人で弓を曲げて1人が弦をかける)の強弓を用い、一矢で大鎧武者を3人貫通したといいます。これは例外としても、5人張りくらいは普通に存在したようです。で、そんな長弓を馬上であやつるには、数年におよぶ訓練が必要です。つまり大の男にそんな訓練をゆるす社会でなければなりません。
この頃、世界のほとんどの国では、騎兵なんて全軍の5%もいませんでした。ほとんどが歩兵。ヨーロッパなどは騎兵、歩兵、弓兵と専門分化するのが当たり前で、たとえば槍兵が援護しつつ弓兵で攻撃。続いて歩兵の突撃、といった感じです。騎兵は虎の子であり、神速の機動力で最前線を突破する、または後方の歩兵補助に用います。そんな騎兵を大量に擁したところにモンゴル帝国の強さがあったのですが、対日本ではこれの真逆の状況に置かれました。何せ鎌倉武士は、なんでもできるオールマイティな集団です。和弓の長距離攻撃、騎乗の機動力、さらに重装備の防御を兼ね備えた「重装長弓騎兵」といったところですが、さらに太刀や槍もお手の物。アウェイだった元軍にしてみれば、敵の日本軍は地形を熟知しつつ、アウトレンジで機動攻撃をしかけてくる。やっと近接戦に持ち込んだと思ったら、白兵戦の練度も高い。
ですから、記事にあるように「元軍側のミスが敗因」というのは厳しい見方でしょう。地の利を活かしつつ、練度の高い戦力を数万規模で動員してくる国に出会ったのは、おそらく日本が初めてだったはずです。日本の武士がいちいち名乗りを上げたというのも誤解で、名乗りは敵ではなく味方に対して「オレの手柄だってこと、みんな見てくれよな」という意味で行うものでした。日本が神風で偶然勝った、なんていうのは当時戦った人々への冒涜。戦う前にやるべきことを正しく行い、勝つべくして勝った。それが元寇です。
日本の国別の地勢、風俗、気質などを書いた地誌『人国記』(作者不詳、成立年代も室町末期らしい)という本において陸奥国のところに「この国の人は日の本の故にや、色白くして眼の色青きこと多し」と驚くべき記述がある。
東北大学の調査によると、宮城県から424人の目を調査したら、①完全に茶色の目=359人→84.7%、②いくつか青い部分もある=43人→10.1%、③青い目だけれども全体の半分以下しかない=15人→3.5%、④青い目がほとんどだけれども中心は茶色=6人→1.4%、⑤完全に青い目=1人→0.2%、となった。この調査が本当であれば、100人に1-2人は、青い瞳を持った人となる。部分的に青い瞳を持った人たちも含めれば、100人に5~15人もの人たちが青い瞳を持っている。
日本人の瞳は一般的に「黒」だと思われているが、正確には「茶色」である。東北と九州に多いのは瞳の色が極端に明るい(茶色い)日本人である。彼らの第一印象は「どこか日本人離れした顔」や「外国人っぽい」と思われることが多い。九州では特に明るい色の瞳を持つ人の人口割合が多い。東北では青と茶色の色素がミックスしたような不思議な青眼を持つ人もいる。「青×茶色」の茶色中の黄色味が強い場合は青い目と合わさって緑色っぽい瞳に見えることもある。
東北出身の女性と結婚したAは待望の子供ができて大喜びしたが、生まれてきた子供の瞳はAとも奥さんとも似つかない青っぽい不思議な色の瞳をしていた。DNA鑑定の結果、その子はやはり正真正銘Aと奥さんの子供なのである。確かに、この子は瞳の色以外は完全に「日本人の赤ちゃんの顔」なのである。子供を育てていくうちに子供の瞳の色が暗い色に変わった。幼稚園に入りしばらくたつと、瞳の色も違和感のない程度に茶色く、「誰が見てもAさんの子供とわかる」くらい瓜二つの「日本人顔」になった。奥さんの方の親戚の多くがとても明るい色の瞳を持っている人が多いことが分かった。そのうちの一人はAさんの子供と同じように「赤ん坊のころは瞳の色が違った(青っぽい不思議な瞳)」だった。大人になってからも青い目だった人はめったにいないが、東北地方には「赤ちゃんの頃だけは明るい目だった」という人はいて、明るい瞳の遺伝子を持っている人も多い。
北西に向かったハプログループR(Y染色体)は北西に移動したハプログループN(Y染色体)とシベリア~中央アジア辺りで混血し、色白金髪碧眼(青い瞳)高身長遺伝子はハプログループN(Y染色体)→ハプログループR(Y染色体)に受け継がれた。色白金髪碧眼(青い瞳)高身長はネアンデルタール人から先住日本人(岩宿時代:約4万年前~)に受け継がれた。ハプログループN(Y染色体)に限らない。
縄文文明【紀元前1万6500年~紀元前1000年頃、旧O2b(Y染色体)系、縄文語】や長江文明【紀元前1万4000年頃~紀元前1000年頃、旧O2b(Y染色体)系、ベトナム系言語】に遅れて、7300年前の喜界島超巨大噴火以後に遼河文明【紀元前6200年前~紀元前500年頃、ハプログループN(Y染色体)、ウラル語族】と黄河文明【紀元前6800年~紀元前1600年、ハプログループO2(Y染色体)=旧O3(Y染色体)、シナ・チベット語族】が起こり、難を逃れた縄文文明人がこの2つの文明に深く関わっていた。色白金髪碧眼高身長は縄文文明人から遼河文明人に引き継がれた。遼河沿岸地帯は1万2000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在した。日本も7000年前の縄文海進では関東まで熱帯だった。その後、遼河文明人は、約4200年前頃から始まった気候変動により砂漠化したことから、色白金髪碧眼高身長のハプログループN(Y染色体)は西に移動し、(狭義の)匈奴【ハプログループN(Y染色体)、ウラル語族】と呼ばれていた。
後に、遼河沿岸の(狭義の)匈奴(ハプログループN(Y染色体)、ウラル語族)にモンゴル(ハプログループC2(Y染色体)、アルタイ諸語)や東南アジアから北上したインディアン語族のQ (Y染色体)(アメリカ先住民)を合わせて(広義の)匈奴と言うようになった。
遼河文明遺跡における6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析ではウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループN(Y染色体)が60%以上の高頻度で認められることから、遼河文明を担った集団はウラル語族を話していた可能性がある。遼河文明を担った人々と、北欧のフィンランドやノルウェー、ロシア北西部などに住むウラル系民族は、同じルーツである。実際にウラル系民族が住んでいるところから櫛目文土器が出土している。当初は東南アジアにいた祖先型であるNO*(Y染色体)がN(Y染色体)祖型とO(Y染色体)祖型に分岐した後、そのN(Y染色体)祖型が北上して遼河流域にやってきて遼河文明を発展させた。O(Y染色体)祖型はO2(Y染色体)系統【古長江沿岸・北東亜平野・日本列島系】やO3(Y染色体)系統【黄河沿岸系】に分岐して長江文明や黄河文明を開化させた。遼河文明を担った人々は気候の変動や他民族から追われて、北(1万2000年前頃)又は西(4200年前頃)へ移動した。その根拠は櫛目文土器の出土である。最古のものは遼河文明・興隆窪文化(紀元前6200年頃~紀元前5400年頃)の遺跡から発見されており、フィンランドでは紀元前4200年以降、朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れる。日本の縄文土器にも類する土器(曽畑式土器)があり、弥生土器にも似た文様を持つ物がある。土器は東アジア発祥であり、西へと伝播した。曾畑式土器との類似が指摘され、縄文文化にも影響を及ぼした。遼河流域に紀元前6200年頃から繁栄した文明が北欧に伝播するとともに、朝鮮半島、日本列島にも伝播し、影響を及ぼした。
なお、中央アジアのキルギスの例からソグド人はハプログループR(Y染色体)、ハプログループO(Y染色体)、ハプログループC(Y染色体)の混血であり、遼河沿岸発祥の(狭義の)匈奴(ハプログループN(Y染色体))とは別である。昔はバルハシ湖の南西にあるソグディアナに住んでいたソグド人とカザフスタンのバルハシ湖の東にいた(狭義の)匈奴を混同していた。
春秋戦国時代に北部中国から瀬戸内海沿岸に下戸の黄河沿岸系が難民として逃れて来たのに伴い、西日本の縄文人(色白金髪碧眼高身長)の一部がユーラシア大陸を移動していった。3.5万年前頃にNOがNとOに分化したが、分化前のNOが徳島で5.7%、福岡で3.8%存在する。分化前のNOは北東亜平野(最終氷河期では黄海や東シナ海は陸地だった)に連なる遼河沿岸と西日本にしかいない。
この(狭義の)匈奴は現在、北欧【ハプログループN(Y染色体)のフィンランドのフィン人、スカンジナビア半島東半分に住むサーミ人、バルト3国人、ウラル語族)】や東欧【ハンガリー人、ウラル語族、現在は周囲と混血し、ヨーロッパ人の遺伝子が多い】に住んでいる。ハンガリー人はハプログループR(Y染色体)の比率が高く、ヨーロッパ人化が進んでいるが、フィンランド人はハプログループN(Y染色体)の比率が高く、アジア系(日本の蝦夷【えみし】と同じ)の特徴が残っている。ハンガリー人はマジャール人とも呼ばれているが、マジャールは(広義の)匈奴=モンゴル(ペルシャ語のムガール)である。フィンランド人(Y染色体ハプログループN1a1・61%、 I ・29%、 R1a ・5%、R1b ・3.5%)、スカンジナビア半島東半分に住むサーミ人(N・48%、I1・約31%)、バルト三国人【+I(Y染色体)、エストニア人N(Y染色体)・41%、ラトビア人、リトアニア人】、マジャール人(Y染色体ハプログループR1a が最多、R1b や I がほぼ高~中頻度、NやC2が低頻度)等である。ハプログループ I (Y染色体)が結構多いことから、バルカン半島~スカンジナビア半島でハプログループ I (Y染色体)+ハプログループR(Y染色体)+ハプログループN(Y染色体)がバイキングとして混血した。
ハプログループD(Y染色体)の移動(ヨーロッパ→日本)
最終氷河期には中近東と南欧は陸続きだったので、ハプログループDEは南欧に入った後、DE→D(YAP+) (約6万年前、黒海北岸)、E(YAP-) (6万5200年前、地中海沿岸)に分かれた。約3万9000年前にイタリア・ナポリ西側で火山の大噴火が起きた後、南欧にいたハプログループE(YAP-)から派生したハプログループD=地中海沿岸系日本人の先祖(日本固有種D-M116.1*・16.6%、D-M125*・12.0%、D-P37.1*・3.9%、D-P42・2.3%、古代ラテン語)は黒海北岸(現在のウクライナ、モルドバ、ルーマニアあたり。ウクライナやポーランドではマンモスの骨で作られた住居跡が発掘されている)に移り住んだ。2万年前、食料となるマンモスを追って東に進み、バイカル湖畔を経由して寒冷化による南下を始め、アムール川、沿海州を通って、氷河期は海面が140メートル低く陸続きとなっていた樺太や北海道(マンモス生息域南限)に南下した。約1万4000年前、凍った津軽海峡を渡って東日本縄文人となった。ヨーロッパ南部(+バルカン半島・北欧系I-P19・0.4%、2万年前、古代コーカサス語)→西シベリア南部(アーリア系R-M207・0.4%、2万年前、古代ケルト語)→バイカル湖畔(+トルコ系C-M217*・1.9%、2万年前、古代トルコ語)→アムール川(+タタール系Q-P36・0.4%、2万年前、古代インディアン語族)→沿海州(+北方ツングース系ウリチC-M86・1.2%、2万年前、古代ツングース語系)→樺太→北海道(2万年前、残留組がアイヌ)→東日本(1万4000年前)と移り住んだ。計39.1%。東日本縄文人は、3500年前、寒冷化に伴い、西日本(人口が東日本の10分の1)に広がり、日本海沿岸、太平洋沿岸、東シナ海沿岸、沖縄に移り住んだ。
(以上)
日本語の起源はラテン語?夢とロマンの「新説」が話題に
例えば「こころ←corculum」「哀れ←avare」「こい(恋)← cupio」「上げる←aggero」「下げる← suggero」 「起こす←occurso」や、「がんばれ←quam vale」「おめでとう←omen datum」などのルーツはいずれもラテン語と喝破し、ラテン語が縄文時代に入り、日本語の形成に影響を与えた。
ラテン語と日本語の意外なる共通点
・音の長短が重要
ラテン語学習者が使う辞書や教科書ではマクロンという長音記号が長音を示す時に使われている。実際のラテン語では、そんなものは存在しなかった。
これがあるかないかで単語の意味が変わっちゃったりするんで、区別するのに便利だからと使っている。
例を挙げると、liber(本 )と līber(自由な;līberīと複数形になれば「子供達」という名詞にも)とか。
日本語でも似たようなケースがある。例えば、「好き」「数奇」「スキー」を言い間違えたら、結構残念な結果になる。
・冠詞がない
ラテン語には冠詞というものが存在しなかった。
・主語がいらない
スペイン語で「主語がいらない主義」はどうやら母(ラテン語)から受け継いでいた。ここでも動詞の活用によって主語は判別するため、主語をいちいち明記する必要がない。
古いラテン語文献を読んでいると、「自分語りしてると思ってたら、いきなり三人称単数の動詞が出てきたけど!これ誰のこと!?それともひょっとして非人称動詞なのか…?」という場面に幾度となく遭遇した。本当の主語は英語で言うitなのか、he又はsheなのか…別に主語を記してはいけない決まりはないので、そこは親切心を以って後の時代の異郷人のために書いてやってもよかった。
日本語話者でもたまに何でもかんでも主語を省いて話す人がいる。
・語順は比較的自由
格やら3つの性やらっていう複雑な文法を備えてるラテン語様には難なくなし得る。
人間は楽な方に走りたがる生き物だから、ラテン語が後のスペイン語やらフランス語やらに変化していくにつれて、「格とか面倒だから、もう語順だけで意味が通じるようにしよう。語順が自由すぎるのも疲れる」とか誰かが言い出したのだろう。
学習者にとっては、きっちきちの語順ルールに従う必要がなく気が楽な反面、ラテン語文献をいざ英訳しようと思った時「この単語がこんな位置に!?」と突っ込みたくなる語順に遭遇することは日常茶飯事。名詞とそれに対する形容詞が数単語分離れてたりする(時には、次の話題に移ってるように見せてからの、思い出したようにポロリと付け足したする?とどう見ても思わざるを得ない状況も… )
どの順番でどの品詞が出るかわからない会話を日常的に繰り広げてたラテン語話者はすごい。
日本語を取っても、動詞が最後という決まりさえ守れば語順なんてほぼどうにでもなる。口語に至ってはその決まりすら破る人続出。でも、ラテン語の自由奔放さには敵わない。
日本語にはウラル語族の文法も入っています。日本語とフィンランド語の似ているところ
発音が似てる?
フィンランド語と日本語は発音が似ている。
フィンランド語は母音が強いが、「どれだけ開音節言語か」という点では正直フランス語やスペイン語に軍配があがる。
フィンランド語は英仏独よりも子音が塊になりづらいので、そういう点で日本語っぽく聞こえる。
日本語とフィンランド語に共通しているのが、「母音と子音の長短を区別する」こと。長い母音はそのまま「あー」にような長い母音ですが、長い子音とはいわゆる促音、「小さいツ」のついた音です。
日本語では「事」と「孤島」は違う単語だし、「肩」と「勝った」や「ハマー」と「ハンマー」も区別されます。
フィンランド語でもこれは同じ。例えばtuli「火」とtuuli「風」、kuka「誰」とkukka「花」、päätä「頭を」とpäättää「決める」といった単語は別の単語として認識されます。
英語では母音の長短は区別される(諸説あります)ものの、短い子音と長い子音はほぼ区別されません。子音と母音の長短が日本語とフィンランド語で共通して区別される。
フィンランド語の日本語みたいな単語
フィンランド語には日本語のように聞こえる単語はあります。
基本的な単語ではkani(カニ、「鶏」)、kana(カナ「鶏」)、susi(ススィ「狼」)、sika(スィカ「豚」)、nainen(ナイネン「女性」)、kivi(キヴィ「石」)などなど。
固有名詞や個人名でも、Jouko(ヨウコ、ただし男性名)、Mika(ミカ、ただし男性名)、Aki(アキ、ただし男性名)、Riku(リク、男性名)といった日本人のような名前があります。
フィンランドの北半分であるラップランド地方のさらに北には、Inari(イナリ)という地名もあります。日本人に有名なオーロラリゾート・サーリセルカがある地名で、発音も日本語の「稲荷」にそっくり。
似ている文法規則もある
フィンランド語版「てにをは」
「フィンランド語と日本語は同じ部類の言語」と言われます。フィンランド語も日本語も「膠着語」というグループの言語という面では共通しています。膠着語(こうちゃくご)とは、単語に色々な小さいものをくっつけて意味を足していくタイプの言語のこと。どちらの言語も「膠着語というグループである」ということなら、似ていると言っても差し支えないか。日本語では「てにをは」といった助詞や動詞の活用語尾を、どんどん後ろにくっつけていって意味を付け足していきます。フィンランド語も同じで、名詞や形容詞、動詞にも助詞のようなものを付け足していきます。
• talo talo-n talo-ssa talo-sta
• 家が、家-の、家-で、家-から
• kynä, kynä-n, kynä-llä, kynä-ksi
• ペン、ペン-の、ペン-で、ペン-として
動詞の活用のしかたも、日本語もフィンランド語も基本的に、語幹の後ろにどんどんくっつけていく。もっとも、何をどの順番でくっつけるかは違う。
• 見る(原形)、見た、見よう、見ている
• katsoa(原形)、katso-i-n(私は見た)、katso-taan、katso-va
日本語では後ろからくっつけるものでも、フィンランド語ではそうでないものもあります(「見ない」とen katsoとか)。
小さな違いは置いておいても、こんな風に「単語に何かをくっつけていく言語=膠着語」という括りにおいては、日本語とフィンランド語は似通っている。
日本語みたいな語順になることも
日本語には、後ろから意味を補足するような関係代名詞はありません。その代わりに、「本を読んでいる男の子」のように「本を読んでいる」という文を「男の子」の前に置くことで関係代名詞のような構成の文をつくることができます。 実はフィンランド語は、英語のように関係代名詞を使った「後ろに置く」文と、日本語のような「前に置く」文の両方を作ることができます。先ほどの「本を読んでいる男の子」はkirjaa lukeva poikaとなります。kirjaaが「本を」でlukevaが「読んでいる」なので、日本語の語順そのままです。ほかにも「あそこで走っている男の子」ならtuolla juokseva poika(tuolla=あそこ、juokseva=走っている)、「ヘルシンキから来た男の子」ならHelsingistä tullut poika(Helsingistä=ヘルシンキから、tullut=来た)。
ただ、1つ注意点が。厳密に言うとフィンランド語のlukevaとかtullutは厳密に分詞(participle)と呼ばれるもの。英語で言うreadingとかhaving comeなどといった部類。なので、フィンランド語では、その分詞が形容詞の要領で名詞を修飾するというスタイルなのです。先ほどのtuolla juokseva poikaなら、poika「少年」をjuokseva「走っている」が形容詞的に修飾している感じ。日本語は名詞の前に文をそのままくっつけられる言語なので、日本語では作れてもフィンランド語では作れない文があったりします。例えば、「私がフィンランド語を教えた学生」なんかは、opiskelija, jolle opetin japaniaと関係代名詞を使って「後ろに置く」文でしか表現できません。
opiskelija, jolle opetin japaniaを分解すると、
• opiskelija = 学生(student)
• jolle = ~に(to which)
• opetin japania = 私が教えた
……となります。英訳すればstudent to which I taught Japaneseですね。
同じなのは見かけの語順だけ、しかも例外あり、ということに注意してください。
「~には……がある」構文がフィンランド語にもある
フィンランド語の所有構文は、ちょっと特殊。
英語やフランス語では「持つ」という意味と動詞(have、avoir)を使ってI have a pen.やJ’ai un stylo.のようにしますが、一方フィンランド語にはhaveに該当する動詞が存在しない。その代わりにどうするかというと、持っている人つまり主語の名詞を変化させる+be動詞を使います。「私はペンをもっている」はMinulla on kynä.になります。Minullaは「私」を意味するminäの変化形で「私(の上)に」、onはbe動詞の3人称単数形、 kynäは「ペン」です。直訳すれば「私(の上)にはペンがある」ということ。さて、似たような構文をどこかで見たことがあると思いませんか。そう、日本語の所有構文です。「私には子どもがいる」とか、「彼にはお金がある」とかないとか。この構文では、「持つ」という動詞は使わず、「(主語+に)+モノ+ある/いる」というかたちになります。
日本語は南インドのラビダ系タミル語の単語も入っています。
南インドのコーサラ国の公主が伽耶の首露王に嫁いできたという伝承があるが、コーサラ国の太陽の紋章と同じデザインの銅器が日本で71発掘されており、その分布は佐賀県、熊本県、長崎県、福岡県、広島県、香川県、鳥取県、奈良県、岐阜県、愛知県、長野県、群馬県、茨城県と広域にひろがりをみせている。
「記紀の伝承や神社の伝承に見え隠れする小人(背の低い人)の存在」→記紀(古事記と日本書紀)には「身短くして手足長し」と表現される土蜘蛛の記述がある。古事記の神武記に土雲八十建が忍坂の大室にいて打ち殺され、日本書紀・景行天皇記・神功摂政前記にも見える。風土記では肥前、豊後、日向、摂津、越後、常陸、陸奥など各地におり、土雲、都知久母、土蛛、土朱、土知朱と記されており、大和朝廷に従わない先住者を蔑んで呼称した。「身短くして手足長し」縄文人はネグリトの特徴を持っていた。
多くの古代文献に見える広い信仰圏を持つ神だが、記紀の神話での活躍は少ない。生成神・神産巣日神(かみむすびのかみ)の子で指の間から零れ落ちたと記される小さな神であり、出雲の大巳貴神(大国主命)と共に国作りをした後に常世の国に去ったと伝えられる。出雲の大国主命は新治を開いて米(稲)作りにより国土経営をしたと伝えられているが、少彦名命は石(いわ)に示現する神として歌われ、粟茎に弾かれて淡島より常世国に至ったとされるので、米作り以前の焼畑農業的な穀霊と考えられている。
巨石文化を持つインドから到来した縄文時代の神であった可能性が濃厚である。安曇磯良(あづみのいそら)→真弓常忠著『大嘗祭の世界』に、民族の始原を語る神楽を始める前に、安曇氏の祖とする安曇磯良を呼び出す「阿知女作法(あちめさほう)」を行うという記述があり、平安時代には民族の始原に海人の安曇氏を比定していた。安曇磯良とは『八幡愚童訓』や『太平記』に記されている安曇氏の祖神だが、神功皇后三韓遠征に際して神々が軍議に集まった時に遅れて現れて、永年海底に住んでカキやヒシにとりつかれて醜い顔になっているのを恥じて浄衣の袖で顔を隠して青農(細男・才男)を舞ったと伝えられている。神功皇后の時代に永年海に住んで醜いほどカキやヒシが付いていたとすれば、相当古い年代に存在していたことになり、縄文時代を想定できる。この神の姿を描くときには顔に白い布が置かれ表情は見えないが、後代の記紀には鯨面(入れ墨)をしている記述があり、異形の相であったことは確か。ただ鯨のように黒い肌であったかはわからない。群馬県、栃木県、茨城県、千葉県から発掘された古墳時代の埴輪には身の丈が立派な首長の傍らに身長が小さく入れ墨をほどこした馬曳きと思われる人物が馬の埴輪と並んで配置されている。縄文人が騎馬系渡来人の元に隷属していった様子がうかがえる。そのほかにもいろいろある。
タミル語の構造は、ほとんどアルタイ語と同じで、すべて日本語と同じである。助詞は、日本語と完全に対応し、細かい言い回しも同じである。似ているところを具体的にあげてみると、①疑問文の作り方が同じ(日本語は語尾に「か?」をつけるがタミル語は語尾に「アー?」をつける)、②文法・文章構成の語順が似ている、③擬音語・擬態語の表現が似ている、④基本母音(a, i, u, e, o)が同じ(長母音と短母音の違いはあり)、⑤その他、似ている言葉がたくさんある(辛いと伝えたい場合、カーラと言えば伝わる)、ことである。擬音語・擬態語では、「すらすらと(日本語)」が「サラサランヌ(タミル語)」、「ひそひそ話をする(日本語)」が「クスクスッカ(タミル語)」、「ハキハキとした(日本語)」が「スルスルッパーナ(タミル語)」、「ワクワクして(日本語)」が「パラパラッパー(タミル語)」(笑)、となる。
弥生時代の北九州の水田耕作・金属(鉄)・機織・大規模な特異な墓地の造営という四つの文明要素が、BC1000年~AD300年にわたる南インドのタミル地域の巨石文化(Megalithic Culture) の文明要素と共通である。また、その時期の土器の表面に付けられている記号文 (Graffiti) に、何百という全く同形の記号が共通に存在する。古代日本語とタミル語との間には様々な単語に強い共通性が見出される。カミ(神)、マツル(祭る)、ハラウ(祓う)、ノム(祈む)などの宗教史上で重要と思われる単語、コメ(米)、アハ(粟)、モチ(餅)、ナへ(苗)、ハタケ(畑)、タンボ(田)、アゼ(畔)、クロ(畦)、ツク(搗く)などといった農耕の基本に関わる単語、アハレ(哀れ)、スキ(好き)、モノ(物)、コト(事)などの思想史上の重要語、テ(手)、アシ(足)、ハ(歯)、ワタ(腸)、ホト(女陰)などの人体語等々500に達する対応語が見出された。
膠着語である北ツラン(東は日本語、朝鮮語(中国共産党に支配され、ツラン性を失っている)、原満州語、モンゴル語、西はトルコ語、ハンガリー語、フィンランド語などのウラル・アルタイ語族など)に南ツラン(タミル語など)を合わせて広義ツランという。ツラン(ウラル・アルタイ)語族からは、屈折語であるインド・ゲルマン語族に属するインド人や白人(コーカサス人=アリアン人)、孤立語である漢民族、チベット民族(日本人と同じハプログループD)、モン、クメール、苗族等は排除される。中国共産党が崩壊し満州が再び独立する時、朝鮮民族は新満州国=渤海(ぼっかい)国の一員としてそのツラン性を復活できるかもしれない。ブルガリアはスラヴに属する東ヨーロッパの国だが、トルコ=ツランの影響力が強く、半ば“ツラン化”された国。グルジア語は、インド・ヨーロッパ語族にも、ウラル=アルタイ語族にも属さないが、トルコ=ツランの影響力が強かった。
日本語にはアルタイ諸語の文法も入っています。
ハプログループC系統のアルタイ諸語(一般にチュルク語族【アルタイ語、トルコ語、ウズベク語、カザフ語、トゥバ語など】、モンゴル語族【モンゴル語、オイラート語、ブリヤート語など】、ツングース語族【エヴェンキ語、満州語など】を含み、広義にはこれらに 日本語族、朝鮮語族も加えられる) は日本語と文法が似ている。トルコ語、ハンガリー語、ドラビダ系タミル語(南インド)などには日本語と共通する単語が結構ある。
トルコ語と日本語の文法は近い。
日本語とトルコ語によく似た単語が多いことは、あるトルコ人の論文でも指摘されている。例えば、トルコ語の「アチ(aci)」は日本語の「味」、「ワル(var)」は「在る」、「ジジク(cicik)」は「乳」、「ハラ(hara)」は「原」、「ナシ(nas)」は「無し」、「ヤマチ(yamac)」は「山」というように、音も意味も類似する単語が非常に多い。
実は、意味が同じで、発音も近い単語が結構沢山あるので、ここで、その一部を紹介いたします。
【Türkçe】 【Japonca】
iyi (イイ) 良い
tepe(テーぺ) てっぺん (丘)
Neden(ねでん) なんで?
Çay(チャイ) 茶(飲料)
Koyu(コユ) 濃い
Kek(ケキ) ケーキ
yakmak(ヤクマック) 焼く
ruh(ルー) 霊
Bira(ビラ) ビール
Tayfun(タイフン) 台風
Yabancı(ヤバンジュ) 野蛮人(外国人・他人)
Var(ヴァル) 有る
だいたい200語近く、似たような単語があるそうです。
トルコ語も、日本語も外来語が多いです。 外来語も入れたら、もっと同じ意味、似た発音のものは沢山あります。
Domates=トマト Patates=ポテト Televizyon=テレビ
Restoran=レストラン Ceket(ジェケット)=ジャケット
Pijama=パジャマ etc etc
もちろん英語とも近いトルコ語も沢山ある。トルコ系言語を用いる国は、現在は中央アジアまでである。「突厥(テュルク)諸語」と呼ばれる同一言語を用いる諸国は、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギスなどにあり、モンゴルやシベリアのツングース族の言葉などひっくるめアルタイ語族という。
2~3世紀の段階でアジアに存在した、トルコ系人種・トルコ系言語と見られる国は、その出自を示すためなのか、国名を「turk」っぽくしていたと思います。そのturkっぽい歴史的国家・部族名を調べると、以下の通りです。
トカラ(tochara)・・・中央アジア、ウズベキスタン。
丁零(teirei)tu-rk→tei-rei・・・シベリアのバイカル湖の南と、アラル海東北。
弁辰(弁韓)の瀆盧國(duklo)・・・韓国の南部。
契丹の吐六部(toluk)・・・モンゴル・中国内蒙古自治区附近か。
匈奴の東胡(tunhag)・・・モンゴル・満州の平原・砂漠地帯
鮮卑の拓跋部(takbuat)・・・同様
※以上の漢字は上古(周・秦)音を基底としたもの
ということで、トルコ系民族の流れは極東まで到達し、実は倭へも入っていたよう
なのですが・・・。それは実は日本人のDNAや、記紀神話からも読み取ることが可能なのですけれど。 ここでは、トルコ語と日本語は似てるかどうかということなので、言語を比較対象として考えてみます。言語学を専門に学んだ学者ではないので、あくまでも素人による見解なわけでして。
単語 発音 トルコ語
陵 misasagi mezar
岳(山) take dağ
嶺 mine mayın
鐘 kane çan
蟻 arinko karınca
蛙 kaeru kurbağa
蟋蟀 koorogi kriket
疫 eyami ayak
良い ii iyi
嗅ぐ kagu koku
暗い kurai karanlık
生る naru null
得る elu almak
癒す iyasu iyileşmek
ぼやけるboyakeru bulanıklık
切れ目 kireme kırmak
勝ち kachi kazanmak
負け make yenmek
また、意味は若干異なるが十分通じるものとして以下のものがあった。
単語 発音 トルコ語
被る(かつら)katsura katlanmak
地(地面)chi(jimen) zemin
逃げる nigeru kaçmak
地面はトルコ語で「ゼミン」という。日本語の地面という熟語はいつからあったのだろう。明治時代頃に近代熟語が日本で作られ、中国や韓国にも輸出されたのであるが、地面もその範疇かもしれない。その場合偶然似通ったことになる。 日本語の「被る」はトルコ語で「カトランマク」で、「カトラ」が日本語の「カツラ」に対応している。カツラというのは「被る」ものだからだ。 妙なのは「逃げる」で、トルコ語では「カチュマク」となり、日本語の「勝ち負け」に対応している風に思える所です。逃げると言う行動は、時に「逃げるが勝ち」であり、逆に「逃げるは負け・敗走」でもあり、このトルコ語の逃げる=カチュマクは面白い言葉です。
日本語とヘブライ語に同じ語彙の単語があります。
左が日本語で右がヘブライ語です。
コマル(困る)―コマル(困る)
スワル(座る)―スワル(休む)
イム(忌む)―イム(ひどい)
ハラウ(払う)―ハーラー(遠くへ捨てる)
ヤスム(休む)―ヤスブ(座る)
カバウ(庇う)―カバァ(隠す)
ホシク(欲しく﹇なる﹈)―ホシュク(欲する)
ツライ(辛い)―ツァラー(恨み、災難)
ダメ(駄目)―タメ(駄目、汚れている)
イツ(何時)―イツ(何時)
アリガトウ(ありがとう)―アリ・ガド(私にとって幸運です)
(日本語) (ヘブライ語)
ヤッホー! =ヤッホー!(神様)
ヨイショ! = ヨイショ(神が助けてくださる)
ワッショイ! =ワッショイ(神が来た)
ハッケヨイノコッタ! =ハッケ(撃て)ヨイ(やっつけろ)ノコッタ(打ち破れ)
ジャンケンポン! = ジャン(隠して)ケン(準備)ポン(来い)
ヤマト(大和) = ヤゥマト(神の民)
かんぬし(神主) = カムナシ(長)
エッサホイサッサ = エッサ(持ち上げる)
サアー! = サア!(出発)
ミヤ(宮) = ミヤ(神様のいる場所)
アリガトウ = アリ・ガト(幸運です)神への感謝の言葉
ミカド (帝) = ミガドル (高貴なお方)
ミコト (尊) = マクト (王、王国)
アスカ (飛鳥) = ハスカー (住居)
ミソギ (禊ぎ) = ミソグ (分別・性別)
ヌシ (主) = ヌシ (長)
サムライ(侍) = シャムライ(守る者)
ヤリ (槍) = ヤリ (射る)
ダメ (駄目) = タメ (ダメ・汚れている)
ニクム (憎む) = ニクム (憎む)
カバウ (庇う) = カバア (隠す)
ユルス (許す) = ユルス (取らせる)
コマル (困る) = コマル (困る)
スム (住む) = スム (住む)
ツモル (積もる) = ツモル (積もる)
コオル (凍る) = コ-ル (寒さ、冷たさ)
スワル (座る) = スワル (座る)
アルク (歩く) = ハラク (歩く)
ハカル (測る) = ハカル (測る)
トル (取る) = トル (取る)
カク (書く) = カク (書く)
ナマル (訛る) = ナマル (訛る)
アキナウ(商う) = アキナフ (買う)
ヤケド (火傷) = ヤケド (火傷)
ニオイ (匂い) = ニホヒ (匂い)
カタ (肩) = カタフ (肩)
ワラベ (子供) = ワラッベン(子供)
アタリ (辺り) = アタリ (辺り)
オワリ (終わり) = アハリ (終わり)
日本語の源ではないかと思われる古代ヘブライ語が500以上もあります。
古代ヘブライ語の発音 意味
アッパレ 栄誉を得る
アラ・マー どうしたの?
アナタ 貴方
アナニヤシ・エオトコ 結婚しましょう
アノー 私に応答させてください
アリ・ガト 私にとって幸運です
オイ 泣く
オニ 私を苦しめる者
オハリ 終端
カサ 傘
グル 団結する
コホル 凍る
サラバ さようなら平安なれ
ジャン・ケン・ポン 隠す・準備せよ・来い
スケベー 肉欲的に寝る
ソーラン 注目せよ
タカ・シオン シオンの丘
ダベル しゃべる
ダマレ 沈黙を守れ
ツラー 辛い
ドシン 肥満
ドスコイ 踏み落とせ
マソリッ 祭り
マツォ(餅) イースト菌を入れないパン
ミヤッコ 代表者
ヤッホー 神よ!
ヤー・ウマト(ヤマト) 神の選民の国
他にも似たような単語があります。
岩宿時代~縄文時代
岩宿遺跡は、群馬県みどり市笠懸町阿左美地内の琴平山・稲荷山の小さな丘陵が接する部分に位置する。昭和21年、切通しの道となっていた岩宿遺跡を通りかかった相沢忠洋氏は切通しで露出した赤土(関東ローム層)から石器を発見した。相沢氏は昭和24年夏、黒耀石の石槍を発見し、相沢氏と明治大学が岩宿遺跡を発掘調査することになり、昭和24年9月11日、岩宿の丘に立った発掘調査隊はそれまで未知の地層であった関東ローム層に挑み、その地層の中から石器が出土した。その後、その年10月、翌昭和25年4月にも発掘調査が行われた。その当時は最も古いと考えられていた縄文時代の土器がやや離れたC地点から発見されたが、それらは関東ローム層より上の黒土に含まれていたので、ローム層から発見された岩宿遺跡(A・B地点)の石器は明らかに古いことがわかり、土器を伴わず石器だけが発見され、縄文時代より古いものであった。発掘調査によって関東ローム層中に層を違えて2つの石器群が発見され、少なくとも約3.5万年前(岩宿I石器文化)と約2.5万年前(岩宿II石器文化)の時期があることが判明し、早くもこの時点で岩宿遺跡の時代に異なる文化の段階があり、その岩宿時代が長い時期にわたっていたと考えられるに至った。2万年前までの世界では打製石器が使われ、旧石器時代と呼ばれたが、日本では世界よりも2万年早く磨製石器が作られ、4万年前から既に新石器時代に突入していた。また、「土器」というこの時代に無いものを用いて時代の呼び方にすることも問題である。
1万9000年前から海面上昇が始まり、縄文時代に突入した。氷河期の日本列島はステップ気候で森林は屋久島までだったが、氷河期が終わると全体が森林に変わっていった。1万5000年前頃から地球は急激な温暖化に見舞われた。草原が少なくなり、日本列島は闊葉樹の森林に覆われる。狩猟を生業としてきたブリヤート人は大型動物が少なくなって深刻な食糧不足に見舞われた。人類が土器を使ったのは1万3000年前、シベリアのアムール川周辺で発掘され、ブリヤート人はこの手法を日本列島に持ち込んだ。ソバの原産地はバイカル湖付近から中国東北地方に至る冷涼地域。世界最大のソバの原産地であるシベリアの普通ソバが日本に伝わった。北海道の「はまなす遺跡」は縄文前期のものとみられるが、この遺跡から普通ソバの花粉が出土している。縄文晩期とみられる青森県田子町の遺跡からもソバの花粉が出土している。信州の野尻湖底からは弥生時代の普通ソバの花粉層が発見されたので、ソバ伝来の歴史は、縄文前期まで遡って考える必要があり、ブリヤート人が日本に渡来してきた時にシベリアの普通ソバを持ってきた。
(以上)
稲作は縄文時代に始まった
世界最古の土器を作った人々が稲作を開始した。現在は海底となっているスンダランド大陸低地で2万年前頃から稲作が始まった。約1万9000年前から海面上昇が始まったことから、原住民はスンダランド大陸低地を放棄し、北東亜平野に移動した。移動したスンダランド人によって、長江沿岸に1万2000年前、鹿児島に1万2000年前、また、岡山県岡山市にある朝寝鼻貝塚からプラントオパールが発見され、8000年前に稲が生育していたことが分かった。佐賀県唐津市教育委員の中島直幸が菜畑(なばたけ)遺跡を発掘調査した結果、7000年前の水田区画跡が発見された。これは長江文明人が縄文時代から頻繁に日本に往来していたことを意味する。地球上の氷河期が終わって気温が上がり、氷が溶け出し、その水が海へ注ぎ、海水の量が増えて来ると、それまで草原と湖であり、ナウマンゾウが住んでいた瀬戸内へも約1万年前に海水が入ってきた。瀬戸内海陸地から内海に変わった。縄文海進による海面上昇で(9000年前~6000年前までに海面は約15m上昇した)瀬戸内海が出来ると、岡山の縄文人たちは海で漁をするようになった。
7000年前の縄文海進では関東まで熱帯だった。熱帯植物である稲は黄河沿岸以北や朝鮮北半分以北では栽培できない。日本では、暖流である黒潮のおかげで関東まで稲作ができる。朝鮮南半分でも稲作ができる。稲作は朝鮮を経由していない。稲作のための水路を作る過程で大量の土が余り、その土で古墳(匈奴由来)を作った。1万2000前に朝鮮半島の先住民(ハプログループN)は、朝鮮半島の木を燃やし尽くし、朝鮮半島が禿山になった。彼らは北アジア一帯及びウラル地域から北欧にかけて移動した。朝鮮半島では草が生え始めてから5000年経ってやっと森林が復活した。この間、人間は住んでいなかった。神武東征(紀元前667年)後、稲作・古墳は2500年前に南朝鮮に伝った。
(以上)
縄文系ゲノムが最も多いのは沖縄県・鹿児島県・東北・アイヌ。
日本人は縄文人の子孫が大陸から来た渡来人と混血することで生まれた。現代人のゲノム(全遺伝情報)を解析したら、47都道府県で縄文人由来と渡来人由来のゲノム比率が異なることがわかった。弥生時代に起こった混血の痕跡は今も残っているようだ。
各都道府県の50人のゲノム情報をもとに、その違いを可視化した。縄文人由来のゲノム成分が多い県は青色で、渡来人由来のゲノム成分が多い府県はオレンジ色で表示した。縄文人由来のゲノム比率が他県と比べて極めて高い沖縄県は地図に含んでいない。1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。瀬戸内海沿岸は酒に弱い黄河沿岸系だが、高知県は酒に強い長江沿岸系である。なお、今回、北海道はアイヌの人々が含まれず、関東の各県と近い比率である。
渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは一見食い違う。上陸地点である九州北部よりも列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高い。大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」と話す。縄文人の子孫と渡来人の混血は数百~1000年ほどかけてゆっくりと進んだ。弥生時代を通じて縄文人と渡来人が長い期間共存していたことが愛知県の遺跡の調査などで判明している。どのような過程で混血が進んだのかはまだ不明である。今回の解析で見えた現代の日本列島に残る都道府県ごとの違いは弥生時代の混血の過程で起こった出来事を反映している。書物にも残されていない日本人の歴史の序章 はほかならぬ私たち自身のゲノムに刻まれている。
縄文女性の顔の特徴に関わる遺伝子を調べた結果、肌はしみができやすい性質(コーカソイドで湿型の耳垢)で色が濃く、毛髪は細く縮れたタイプ(毛深いが、優勢遺伝の天然パーマ・禿げやすいラテン系の影響)。中国人のような直毛ではなかった。鼻の高さは中程度で、瞳は茶色(劣性遺伝である青い瞳・色白金髪の蝦夷【えみし】=東北地方の影響)だった。中国人のように黒い瞳ではなかった。アルコールを効率よく分解できる遺伝子を持ち、酒に強かった。北部中国にいた下戸の黄河沿岸系が日本に流れ込む前だった。縄文人は二重瞼だが、志那朝鮮人は一重瞼である。血液型はA型。血液型O型の東アジア人はまだ少なかった。
ダリアさん、日本の地理・歴史・景色・風土・いわれ・高速バス旅を明るくわかりやすく、興味深く、楽しく語ってくれてありがとうございますm(_ _)m!中身はといえば「古代湖」とか「移動した湖」とか初耳ばかりwww!腰が低く美人で日本を研究する考古学者ではと感じてしまうような幅広い知識と語り。ダリアさんって何者?新鮮でした~www!
スペイン語と日本語は似てる言葉?-発音, 文法, 単語など共通点がある日本語と西語
スペイン語と日本語は似ているのかというと、「似ていないが、似ている」。 実は日本語はポルトガル語の単語を多く借用しており、特に語彙の面でポルトガル語と日本語は似ているが、スペイン語がポルトガル語と兄弟であるため、日本語の語彙がスペイン語と似ている。また、発音は、スペイン語は母音が「aeiou」の5つであり、日本語と同じ母音を持っている。その点で、日本語と発音が類似しており、日本人には発音しやすい言語である。
スペイン語はラテン系のロマンス諸語(略)
日本語は仲間がいない言語
日本語は、実はバスク語と並んで世界で唯二つ日本語は他に仲間がいない言語。つまり、どのグループにも属していない。そして、その見地に立つと日本語に似ている言語は無い。一方で、琉球語が日本語の一派だとする説もあり、その場合には日本語グループの中に日本語と琉球語が存在する。いずれにせよ、スペイン語語と日本語は全く異なった言語。
違うが似ている文法-スペイン語と日本語の不思議
文法面は違う言語ということで大きく異なっている部分が大半だが、意外と似ている部分もある。
自由な語順
文法は基本的には異なる。例えば、スペイン語はSVO(主語、動詞、目的語)の順番で文を作るが、日本語はSOV(主語、目的語、動詞)の順番で文章を構築するのが普通である。といっても、助詞がある日本語は語順を自由に替えることができる。例えば、「私はパンを食べる」はスペイン語では「Yo como pan (私 食べる パン」となり、日本語とは異なる語順。一方で、基本はあるけれど、語順がかなり自由という面でスペイン語と日本語はよく似ている。例えば、「私は日本に住んでいます」という場合、スペイン語では「Yo vivo en Japon.」となり、「私は(yo)vivo(住んでいます)en Japon(日本に)」という語順となるが、順番を入れ替えて「Vivo yo en Japon」や「En Japon, vivo Yo」などの順番にすることもできる。日本語でも「私は日本に住んでいます」という言い方も、「日本に私は住んでいます」という言い方も「日本に住んでいます、私は」という言い方もできることを考えると、少し似ている。
英語の場合、「I live in Japan」のように、順番を入れ替えることができず、慣れるまでは大変だが、スペイン語は日本語の感覚で自由に文を作ることができる。
主語を省略
英語を学ぶとき、必ず主語を付けるということ学ぶ。
「I live in Japan」を「Live in Japan」とすることはできないが、スペイン語では日本語と同じく主語を省略することが可能である。「私は日本に住んでいます」という「Yo vivo en Japon」も、主語の「Yo」を言わずに「Vivo en Japon」とすることができる。日本語でも毎回「私は〇〇です」と言うことはなく、多くの場合「日本に住んでます」など、主語を省略することが多いが、スペイン語はその点で日本語ととてもよく似ている言語である。
動詞の活用
日本語には「未然、連用、終止、連体、仮定、命令」のように、動詞にくっつく語によって動詞が変わる、動詞の活用があるが、スペイン語は「主語と時制による動詞の活用」がある。つまり、①私、②君、③彼/彼女/あなた、④私たち、⑤君たち、⑥彼ら/彼女ら/あなた方、という6つの種類の主語ごとに同氏の形が変わる。例えば、先ほどの「住む」という単語「Vivo」は、もともと「Vivir」という単語が動詞の原形で、主語が「①私」の現在形なので「Vivo」となっていた。一方で、VIvirの現在形の活用を主語ごとに紹介すると、①VIvo、②Vives、③Vive、④Vivimos、⑤Vivis、⑥Viven、となり、主語が誰なのか(誰の行動なのか)によって動詞が変化する。この活用は過去形、現在形、未来形などそれぞれ異なり、1単語につき50個以上の活用を覚える必要があるのがスペイン語の少し大変な部分である。
似ている単語-共通する語彙がある
外来語というと、英語が起源だという印象がある。例えば、「コンセンサスを得る」、「アポを取る」など、元々英語だった言葉を日本として使用していたりする。ただ、日本語のカタカナ語の中には、多くのポルトガル語起源の言葉がある。そして、ポルトガル語起源の単語はスペイン語ともよく似ている。例えば、「パン」はポルトガル語の「Pao(ぱお)」からできた単語でスペイン語では日本語と同じ「Pan(パン)」と発音する。他にも「合羽」、「カルタ」、「キリスト」、「ピン」、「ビードロ」など、既に外来語ではなく日本語として認識されている言葉もスペイン語と共通していたりする。
ポルトガル・スペインと日本の関係
なぜ、ポルトガル語由来の日本語が多くあるのかと言うと、大航海時代の16世紀(1500年代)前半にポルトガル人が日本にたどり着き、貿易を行ったからである。所謂「南蛮貿易」である。このポルトガル人の日本到着の影響で日本にキリスト教が伝わり、また、種子島には鉄砲が伝来した。ちなみに、南蛮貿易にはスペインとの貿易も含まれるので、外来語の中にはもともとスペイン語だった単語もあるかもしれないが、基本的にはポルトガル語由来だと言われている。ポルトガルやスペインとの交易を行った日本には、多くのポルトガル人やスペイン人が渡来した。安土桃山時代には織田信長と豊臣秀吉が、南蛮貿易を推奨し、交易がますます発展した。ちなみに、有名なイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルはスペインのナバラ地方出身のスペイン人である。そんな人の交流、文化の交流によって、ポルトガル語の語彙が日本でも使用されるようになった。
スペイン語が日本語になっていることも
ポルトガル語の語彙が日本語で借用語として使用されていることが多いが、実はスペイン語の語彙が日本語として使われていることもある。例えば、エルニーニョ現象、ラニーニャ現象、リアス式海岸、ナタデココなど。また、サッカーチームの名前がスペイン語由来だったりと、意外とスペイン語との共通点がある。セレッソ大阪、柏レイソル、大宮アルディージャ、横浜Fマリノスなどがその例である。また、反対に日本語由来のスペイン語も存在する。例えば、マンガ、アニメ、カミカゼ、寿司などの言葉はそのまま日本語がスペイン語として使用されている。
発音が似ているスペイン語と日本語
スペイン語の発音と日本語とよく似ている。スペイン語の母音は日本語と同じく「a, e, i, o, u」の5つ。アルファベットの読み方はほぼローマ字読みである。少し変わった音として、Rの音が巻き舌になることがあるのと、JとGの音を「は行」で発音する場合がある。スペイン語の音は本当に日本語にそっくりなので、日本語を話す感覚でスペイン語を話すだけで、「発音上手」と褒めてもらえる。スペイン語が勉強しやすいと言われる所以もここにある。ちなみに、独自の発音を持つフランス語や英語話者はスペイン語の学習時に母語の影響で上手く発音できないと言っていた。日本人にとって英語の発音は難しいと感じるように、英語話者もスペイン語の発音は難しいと感じる。このように、巻き舌など、少し難しい発音もあるが、基本的にはスペイン語と日本語の発音はよく似ている。
知識はもちろんですか~ナレーションとしても素晴らしいと思っております。落ち着いたトーン、淀みない口調を考えると、NHKでの歴史物散策みたいな番組に出演するのがピッタリと思いました
いつも楽しい動画ありがとうございます。今回も「琵琶湖が太古には違う場所だった」など、一般には知られていないお話を聞きながら、車窓からの景色を楽しませていただきました。
今後も楽しみにしています。ちなみに私は世田ヶ
こんだけ歴史好きなら自動車免許取りたいところですね。自動車があると圧倒的動ける範囲が広がって面白い。滋賀県は渋くカッコイイ寺社が多いので^^
滋賀県の神社の特徴は、東日本で神楽殿や舞殿のような建築施設が拝殿となっている所。
甲南PAに行ったという事はトンネルの上の「狛坂磨崖仏」なんかも通過した訳ですね^^狛坂磨崖仏も謎の古代仏
甲賀で良かった寺社は「油日神社」でカッコイイ。
編集も非常によく出来ておりますな。このチャンネル、友人に紹介しまくっております。
近鉄特急もあるので覚えておいて下さい。バスは苦手だけど新幹線より安くという人に向いています。速いし新幹線より安いし、吉野家のような。