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【4K】激動の時代を駆け抜けた皇子を祀る社:静岡県・井伊谷宮(Iinoya-gū | Shinto Shrine in Shizuoka Prefecture)

どうも、管理人のヒロリンです。

今回は静岡県浜松市に鎮座する井伊谷宮(いいのやぐう)を紹介したいと思います。

世界文化遺産の候補にもなっている国宝の名城・彦根城。この彦根城を藩庁として旧近江国の北部を領有した彦根藩の主家となった井伊氏は静岡県浜松市の「井伊谷」という地を発祥地としています。

その井伊谷に鎮座するのが井伊谷宮です。祀られているのは、鎌倉時代末期から建武の新政期に活躍した宗良親王(むねながしんのう)。宗良親王は建武の新政を行ったことで有名な後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の息子であり、更には鎌倉幕府を滅亡させた元弘の乱でエース級の大活躍をした護良親王(もりよししんのう)とは異母兄弟の関係にあります。

皇族という位の高い宗良親王が何故、辺境の地である静岡県の井伊谷に祀られることになったのか。宗良親王の人物像に触れながら説明していきたいと思います。

宗良親王は後醍醐天皇の第四皇子として生誕。母親を早くに亡くしてしまい、幼い頃は母方の祖父の二条家で育てられます。二条家は和歌の名門の家系であり、その二条家で育ったことが宗良親王に類まれなる和歌の才能を身に付けさせることになります。

平穏な時代であれば京の都でたくさんの和歌を作っていただろう宗良親王ですが、時代は鎌倉時代末期。鎌倉幕府の実権を握っていた執権の北条高時は遊んでばかりで民の幸福を少しも考えていない暗君でした。幕府の家来、そして民が苦労しているのを目の当たりにした後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、天皇自身による政治を成し遂げようと画策します。

そんな激動の時代、宗良親王は修行をされて比叡山に出家。そこには異母兄弟である護良親王もいました。護良親王は宗良親王よりも早く比叡山に出家し、天台宗の座主(最高位の僧)となっていましたが、来るべき鎌倉幕府との戦に備えて武道の鍛錬を怠らない極めて珍しい皇子でもありました。

それに対して宗良親王は穏やかで優しい性格だったこともあり、武道よりも歌や学問に傾倒する日々を送っていたとされています。宗良親王にとって和歌は何よりも大切なものであり、この先の長い旅や戦乱の中でも親王が歌を手放すことは一度もありませんでした。

その後、倒幕の動きが広まり、兄である護良親王や源氏の名門である新田義貞や楠木正成、足利尊氏らの活躍もあって鎌倉幕府は崩壊。後醍醐天皇が執権する建武の新政が始まります。

しかし、建武の新政が始まって間もない頃から力を強める足利尊氏に対して、皇子である護良親王が警戒心を強めます。後醍醐天皇に対して「足利尊氏を討たないと危険である」と進言しますが、尊氏を信用していた後醍醐天皇はこの進言を聞き入れず、逆にこれを知った足利尊氏は護良親王を捉えて幽閉し、殺害してしまいます。

護良親王という障壁がなくなった足利尊氏は急速に力をつけ、朝廷を脅かすほどの勢力となります。ここに至って初めて後醍醐天皇は足利尊氏を追討するよう命令を下しますが時すでに遅しでした。

足利尊氏勢に対して鎌倉幕府を倒した時に活躍した忠臣である楠木正成、新田義貞、北畠顕家らは次々と討死。後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開き、足利尊氏は京都に新しい天皇(光明天皇)をたて北朝を開きます。ここに建武の新政は崩れ去り、この先57年に南朝と北朝が並び立つ南北朝時代が始まります。

後醍醐天皇は起死回生をねらって自分の皇子たちを各地に派遣することを計画。和歌を好む宗良親王も東国に派遣されることが決定し、否応がなしに争乱に巻き込まれていきます。ところが東国に行くために伊勢から出発した宗良親王を乗せた船は大風に遭って三日三晩漂流して座礁。宗良親王は静岡の地に漂着し、井伊谷へ移動。この地を統治していた井伊道政を頼ることになります。井伊道政は南朝側の人間であり、そこを味方にしたいという思惑があったのです。

この地で宗良親王は井伊道政とともに三岳城で足利軍と対陣することになります。井伊谷は浜名湖、太平洋まで一望でき、見下ろす街道は、北は長篠、西は豊川、東は二俣へと通じており、まさに要衝の城。宗良親王は三岳城を拠点によく戦い、鎌倉と京都の足利勢を分断することに成功します。この時、宗良親王は足利勢に太腿を矢で射抜かれてしまいますが、射抜かれた太腿は痛みを感じず、毅然と立ってその後も戦闘の指揮を続けたとされています。和歌ばかり詠む軟弱な皇子とみられていた宗良親王の粉骨砕身の活躍は周りの武士に「この方には神仏の護りがついている」と思わせ、南朝側の士気を上げることに繋がります。
しかし、業を煮やした足利尊氏は1340年に大軍勢を送ったことで、三岳城は奮戦虚しく陥落。宗良親王は大平城に移ってなおも抗戦しますが支えきれず、信濃国大河原へと落ちていきます。

宗良親王はこの信濃国を拠点として抵抗を続けますが、その間にも楠木正行など頼みになる武将は次々と戦死、吉野の地も焼き払われ、南朝側は次第に追い詰められていきます。

しかし、1352年に足利尊氏を討つチャンスがとうとう巡ってきます。発端は足利の兄弟喧嘩でした。はじめは一緒に政治を行っていた尊氏と直義の兄弟でしたが、だんだん仲が悪くなり弟の直義が兄の家来を殺害したことで、兄である尊氏は弟の直義を毒殺。この争いに天下が乱れたことで全国の武士が立ち上がり、南朝側は京都と鎌倉を同時に征服することを画策します。

宗良親王は征夷大将軍に任命され、信濃の諸将らと共に鎌倉へと攻め込みます。その際、宗良親王は南朝側の兵を励ますため

「君がため世のため何か惜しからん 捨てて甲斐ある命なりせば」

という歌を詠みました。この歌は日本人に長く歌い継がれ、明治維新の志士たちは特に愛唱したといいます。この戦で宗良親王軍は鎌倉の占拠に成功。父の代の乱に続く2度目の鎌倉奪還。宗良親王の胸中にはさぞかし感慨深いものがあったでしょう。

しかし、その勝利もつかの間、再度大軍を率いた足利軍に敗れて以降は諸国を廻った後に1374年に36年ぶりに吉野に戻ることになります。そこで、長慶天皇から勅撰和歌集を編集するよう命じられ、大阪の地で「新葉和歌集」の選進に着手。1381年に和歌集が完成し、南朝の勅撰集として長慶天皇に奏覧されました。これにより南朝の人々の歌は長く後世に伝えられることになったのです。

ほどなくして宗良親王は井伊高顕らに守られて井伊谷の地に帰ったとされています。そして1385年に宗良親王は井伊谷の地で死去し、墳墓が建てられます。その墳墓を背後として建てられたのが今回ご紹介する井伊谷宮です。

明治維新の際、建武の新政に尽力した人々を祀る神社が次々に作られ、井伊谷宮もそのうちの一つとして創建されました。彦根藩の知藩事・井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治3年(1870年)に井伊谷宮は創建。

学問の神様として静岡県を始め多くの人々から仰がれ、親しまれる同社。
数奇な人生を力の限り生き、生きた証を和歌という形で残した宗良親王の歴史ドラマを感じられる場所でもあります。

この動画を通じ、井伊谷宮に興味を持っていただけると幸甚です。

Iinoya-gū is a Shinto shrine in Kita-ku, Hamamatsu, Shizuoka Prefecture, Japan.

It was established in 1872. It is one of the Fifteen Shrines of the Kenmu Restoration.

Iinoya-gū is dedicated to the deified spirit of Prince Munenaga, the fourth son of Emperor Go-Daigo, who died on this location in 1385. Munenaga was appointed as Shogun by his father, and fought on behalf of the Southern Court against Ashikaga Takauji. Long after the establishment of the Muromachi shogunate and Munenaga refused to accept defeat and continued his resistance in the mountains of Tōtōmi and Shinano Provinces until his death.

Following the Meiji restoration, the new Meiji government wished to propagate a sense of loyalty to the Imperial family of Japan and to emphasize the legitimacy of the Southern Court. The former daimyō of Hikone Domain, Ii Naonori brought the site of Prince Munenaga’s grave to the attention of the authorities. The grave was located in Ii-no-ya valley, which also happened to be the ancestral home of the Ii clan. Construction on a shrine began in 1870 and the building was completed in 1872.

In 1873, the shrine was given the rank of Kanpei-Chūsha, or imperial shrine of the second rank, in the Modern system of ranked Shinto Shrines under State Shinto.

Alo Japan.