2019.02.01(金) 本棚から取り出したフジサンケイリビング総武・常磐編集室編集の昭和50年(1975)11月発行<京葉散歩>千葉市編を参考に歩いてみました。発行から40年を経過し、町の様子も大きく様変わりしています。
人口は千葉市になった大正10年(1915)当時は4万人ほど、戦後、川崎製鉄(現JFE千葉)が千葉市で操業を始めた頃の昭和30年(1955)当時で20万人、この本が発行された当時は周辺にたくさんの団地が完成し急増で60万人、現在は約98万人(2018)と昭和38年(1963)国鉄千葉駅が現在地へ移転された頃の3倍の人口となりました。
平安末期から戦国の世までは千葉氏の拠点として栄えた様ですが、江戸期は佐倉藩の所領となりました、しかし、特に栄えること無く、妙見宮(現・千葉神社)の門前町だった様です。明治から戦前は軍都となりました。
軍の施設や軍需産業の工場などもあったことで、米軍の2回による大空襲で市街地の大半は焼け野原となりました。2千人近い犠牲者が出ました。戦後、川崎製鉄が製鉄工場を設置し、千葉市は大きく伸びて行くことになりました。その反面、公害との戦いも続きました。現在、綺麗になった街や空を見て、空襲や公害も忘れ去られようとしています。

千葉市なつかしのフォトギャラリー

コース
京成千葉中央駅→公立千葉病院跡碑→蓮池碑→都川公園→JR本千葉駅→県庁前→日本キリスト教団千葉教会→智光院→胤重寺→亥鼻公園→千葉城展望台→お茶の水跡→千葉大医学部→矢作町給水塔→青葉病院→青葉の森公園→千葉寺→(バス)→JR千葉駅

其の二の一
京成千葉中央駅から、前回、探しあぐねた「蓮池碑」を確認に行きました。
旧蓮池地区を一廻りし、三駅移転の最後の駅、JR本千葉駅へと向かいます。
都川公園を抜け、千葉市消防局前から本千葉駅へ、当時、京葉道路は高品止まり、国道16号線も県庁前の市街地を抜けていたので、本千葉駅の踏切が開かずの踏切でいつも大渋滞でした。現在は高架となり、また道路も整備され市街地を外れたので静かな流れとなっています。亥鼻公園へと向かいます。戦前は師範学校などがあった教育文化の地域でしたが、空襲により千葉大教育学部はJR西千葉駅前の弥生町へ移転、跡地には県文化会館や市郷土博物館などが建てられました。花見の季節には大勢の市民が訪れます。
源頼朝も飲んだと伝わるお茶の水跡に立ち寄り、病院坂を上り千葉大医学部へと向かいます。

※ビデオ内の説明は本を参考に、ネットなどで検索し記載していますが、間違いもあるかも知れませんので、ご了承願います。
其の二の二

千葉市歴史散歩リスト

関連動画
千葉都市モノレールと千葉城花見(2017.4)

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